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◆ああ、またあの8月15日がやってくる・・・。毎年8月15日が近くなると、否応なしに思い出されることが2つある。62年前の8月15日、小学校5年生だった“仕置人”は北辺の樺太(現サハリン)で、ソ連軍の進駐と爆撃におののきながら、疎開の一団からはぐれ、一人で昼夜の山野をさまよっていた。
やがて道路へと出て、誰もいなくなった農家へ上がり込んで手当たり次第に食べものを口に放り込んだ。そして再び道路へ出ると、機銃掃射を受けた馬や人の死体が横たわっていて傷口にはウジ虫がうごめいていた。
◆道端に立ちすくんでいると、遠くに聞こえていた馬の蹄の音が近づいてきて、立派な軍刀を腰に下げた将校がその馬から降りてきた。「オイ、どうして一人か。いま、天皇陛下の玉音放送があって、わが日本は無条件降伏をした。うちはどこかな」と訪ねた。“仕置人”は恵須取郡塔路町です
と答えると、「よし分かりやすい道まで送っていこう」と抱き上げて馬の背にまたがせ、将校も馬に乗った。馬の背で揺られていると、将校のかすかな嗚咽が漏れてきた。そして「負けるわけがないんだ。日本が負けるわけがない」とつぶやいていた。
◆もう一つの思い出は、戦後50年目の8月3日から8日間、アジアの留学生24人とボランティア財団の役員数名の30人余りでの“長崎遊説”である。このボランティア財団は、昭和25年に設立されていて常務理事だった“仕置人”は“団長”として参加し、戦後50年の節目に原爆を投下された長崎をアジアの若者に見せ、何を感じるかを確かめたかった。
羽田から長崎空港へ着き、あとは貸切バスで平戸、島原、佐世保などをめぐり、50年前に長崎に原爆が投下された1日前の8月8日、“長崎遊説”の一行は、バスが長崎市内に入る30分ほど前から静まり返っていた。車内には抑揚のあるバスガイドの声が流れ、学生たちは目をうるませ、ハンカチでそっと涙を拭う者もいた。
◆長崎医大の教授だった永井博士は放射線医学の研究をしていたが、自らも放射能を浴び、昭和26年8月に白血病で死んだ。この永井博士の著書「この子を残して」をバスガイドが朗読したのだ。
<うとうととしていたら、いつのまに遊びから帰ってきたのか、茅乃が冷たいほほを、私のほほにくっつけ、しばらくしてから「ああ、お父さんのにおい」と言った。この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか。母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄る幼ごころのいじらしさ。
戦の火に母を奪われ、父の命はやうやく取りとめたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか。◆枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に全くの廃人となり果てて寝たきりの私であっても、また息だけでも通っておれば、このおさな子にとっては、
依るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども私の体がとうとうこの世から消えた日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向って、何を訴えるであろうか?――私の布団を押入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変らぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくであろうか?
夕陽のかっと射しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりとした有様が目に見えるようだ。私のおそらくなくなった日を想えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめてこの子が、モンペつりのボタンをひとりではめることができるようになるまで・・・・・・なりとも――。>
◆当時TBSのディレクターは“仕置人”の企画に興味を持ち、カメラクルーを連れて同行していた。バスの中で「この子を残して」を聞いたミャンマーからの女子学生はなんとかして永井博士の娘である“茅乃”に逢いたいと言い、テレビ局が居所を突きとめて翌日に実現した(筑紫哲也の「ニュース23」で放映)。 ともあれ、毎年の8月15日が近づくと、終戦直後の樺太と、感動的だったアジアの学生たちとの思い出が蘇ってくる。

平和記念公園にて

千里が浜海水浴場で

第39回アジア親善全国遊説・長崎 '95参加者
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