| ―シリーズ西武― 西武と堤義明の“悪業”を暴く <24> | |
「IOC委員」を狙った義明 <コクド37社に215億返還へ>、<堤氏公表遅らせ株売却へ>、<コクド前専務ら聴取>、<213株主が堤氏ら提訴>、<コクドを税務調査>などカラスの鳴かない日はあっても「堤義明」の名が新聞や週刊誌に載らない日は無い。そして義明の「Xデー」に備えてマスコミは情報収集に東奔西走といったところ。 これまで23回にわたってシリーズ「西武」を掲載してきたが、義明のスポーツ界における“暴君ぶり”と、いかにアマチュアスポーツを食いものにしてきたかを述べてみる。堤義明が、北海道に本格的に進出していったのは昭和46年(1971)の札幌冬季オリンピックに向けて同40年ごろから「札幌プリンスホテル」や大沼に「北海道カントリークラブ」、というように、富良野、弟子屈などにも次々とスポーツ施設を建設した。 こうして北海道のスポーツ界に野心を抱きはじめた義明は「IOC」(国際オリンピック委員会)の委員のポストを狙った。昭和56年(1981)の暮れに定年で「IOC」委員を退任した竹田恒徳の後任を義明が狙ったものの、札幌に「伊藤組」という会社を経営する伊藤義郎がいた。この伊藤は、NHKの経営委員長をも務めた経歴の持ち主で、北海道では数少ない1級の経済人。当時伊藤は「国際スキー連盟」副会長であり、札幌に冬季オリンピックを誘致した実績もあって56年10月には「IOC」委員は伊藤にほぼ決定していたが、12月に竹田が退任したのに後任が決まらず宙に浮いてしまった。 “伊藤IOC委員”決定に待ったをかけた“仕掛人”は実は義明だった、というのが定説になっている。この“伊藤つぶし”は、再度「札幌市」での冬季オリンピック開催を実現しようとした伊藤に対して、義明は、西武の経営している新潟県の「苗場スキー場」での開催を露骨に主張していて、2人は真っ向から対立した。義明は、苗場にスキー場を建設すれば「W杯」を苗場に招致、富良野にスキー場を作った時も、交通アクセスが悪かったにもかかわらず強引に「W杯」を開催した。 しかし、かならずしも義明の資金力を持ってしても、義明には“侵略者”のイメージが強く、伊藤の抵抗には手を焼いた格好で、スポーツ界の“ドン”の義明にとっては目の上のタンコブ。しかし社会人によるアイスホッケーのリーグ戦をつくりあげ、アイスホッケー連盟会長となって「体協」に関係するようになった義明とすれば、自ら「IOC」委員のポストを掌中にして、当時のスポーツ界に君臨するステップにしようと考えたに違いない。 したがって「札幌でオリンピックを開きたいのなら、なぜ 札幌市 長がオレのところに挨拶に来ないのだ。オレを無視して冬季オリンピックを開けるとでも思っているのか」という発言になった。一方、 札幌市 長は「市長のオレに挨拶もしないで」という思いがあったという。こうした確執の末、昭和57年5月28日にローマで開かれた「IOC」の総会で、コルチナ冬季オリンピックで銀メダルを取った猪谷千春が竹田の後任の「IOC」委員に選出された。 |
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