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政府は、去る6月6日、国会が「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択した。北海道選出の官房長官町村信孝も談話を発表した。
“仕置人”は北海道出身だが、青春時代を過ごした室蘭市の“絵靹(えとも)”もアイヌ部落といわれ、数十戸の家々があり、彼らは漁師として生計を立てていた。
差別問題としては“同和差別”のみが声高に叫ばれ、島崎藤村が「田舎教師」や「夜明け前」でも差別問題を提起していて、関西から西日本地方の自治体には「同和対策室」まで設置され、これを逆手に悪用した“エセ同和”の傍若無人な振舞いで顰蹙を買った時期もあった。
一方、アイヌ民族は、1878年にアイヌの呼称を“旧土人”に統一、99年には“北海道旧土人保護法”が公布された。
1986年には、当時の総理大臣中曽根康弘が「日本は単一民族」と発言していた。その後8年ほど月日が過ぎ、アイヌ民族の1人である萱野茂が94年に参議院議員に繰り上げ当選した。この萱野議員の運動や、官房長官の「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」が設置されたりで、徐々に環境が整い、「二風谷ダム訴訟」では、札幌地裁がアイヌの先住性を認める判決を下した。
また、97年にはアイヌ文化振興法が制定され、“北海道旧土人保護法”が廃止された。
そして、この度の「アイヌ民族を先住民族とする」国会決議に突き動かしたのは07年9月に採択された「先住民族の権利に関する国連宣言」だった。もちろん北海道選出超党派議員らの「アイヌ民族の権利確立を考える議員の会」の動きが影響しただろうことは確かである。
虐待と差別と偏見で忍従の歴史を辿る
<旧土人凍死>。こんな新聞のベタな記事を“仕置人”は幾度となく見ている。かつては学校の教師も自治体の公務員にもアイヌは採用されなかった。独自の文字を持たなかった民族だっただけに、和人(シャモ)に欺され、和人に土地や財産を騙し取られつづけた過去もある。女性は、体毛が濃い、というだけで銭湯に入れず、男は主に漁業を営んでいたが、朝からコップ酒(焼酎の場合が多い)を喉に流し込み、アイヌねぎ(行者にんにく)を好んで食べていたためか体臭がつよかった。これらは“仕置人”が室蘭にいた1960年以前の体験であり、現在は詳しくは知らない。
「アイヌ民族」は主に北海道(かつては蝦夷)に居住して狩猟民族だった。
1456年(康正2年)のある日、箱館(現函館)の東北の亀田川の上流志苔の鍛冶村で、アイヌの少年が血まみれで死んでいた。この事件の発端は、この少年が作らせた小刀の価を「切れ味も確かめないで払えるか、シャモ(和人)の首ならともかく蝦夷の首には刃もたつまい!」といったところ鍛冶は、やにわにその小刀をうばうや「斬れ味見せてやる」とばかり力まかせに斬り倒してしまったという。
この報を聞いたコシャマイン尊長は烈火の如く憤り、数万のアイヌを煽動し「和人打つべし!」の旗印を高々とかかげ、各地で武力をふるった。
一方和人も各所に防戦体制を整えたものの、怒涛のように原野を疾駆する蝦夷軍の前にはひとたまりもなく、志苔の館を破られ、箱館の食材も貧し、和人の運命も風前のともしび。
だが、ほどなく集結を終った松前軍の心死の反撃が展開された。その結果、総大将武田信広が夜討ちをかけ、一騎打ちとなり、シャクシャイン尊長は死んだということが伝えられている。
それからややあって、幕末の探検家の松浦武四郎の『知床日誌』によると、シャクシャインの乱のあと松前藩の圧制により、老人や子どもが海辺に出て貝や小魚をあさっていた、という。そして女は16歳か17歳になるとクナシリ島へ送られ、外国の漁師らの相手をさせられ、男は成人になれば、百里も離れた島に追いやられ、結婚もできずに生涯を終えてしまうということが『知床日誌』に記されている。
ちなみに、その『知床日誌』の一部分を原文のまま紹介してみる。
<・・・又夫婦にて彼地へ遣られる時は、其の夫は遠き漁場へ遣し、妻は会所または番小屋へ遣って番人稼人(皆和人也)の慰み者としられ、何時までも隔置かれ、それを否めば辛き目に逢うが、只泣々日を送る事也。(以下略)>
そして前記したように、つい先ごろまで「旧土人」として“差別”されてきた。
蜂起の指導者シャクシャインの像
(北海道静内郡静内町真歌公園)
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