初代環境庁長官・大石武一(1)「日本の自然を守ってやろう」


“水俣病患者の救済”“四日市ぜんそくで異例の見舞”
“尾瀬の観光道路建設の工事中止”など人権重視の姿勢を貫いた初代環境庁長官」へのインタビュー。

『環境ジャーナル』No.267号より抜粋。

 平成12年8月、当時92歳の大石武一を訪ね、環境庁長官時代のエピソードを語ってもらった。

 大石は、明治42年6月に仙台に生まれ、東北大学医学部卒の医学博士。亡父のあとを継いで自民党から衆議院議員として当選10回、参議院議員1回当選。政界引退後は、
「(財)緑の地球防衛基金」会長や“反核軍縮運動”などで活動していたが、昨年死去した。昭和46年75日の佐藤内閣改造で大石は環境庁長官に就任した。

 そのいきさつについて大石は次のように語る。

 「私は草花や野鳥が大好きなんだ。ある時、佐藤総理の自宅に呼ばれて話をしていると、“大石君、閣僚になるとしたら何がいい?と聞くんだ。特にありませんけど、環境庁長官ならぜひやってみたい”と言ったんだ」と今だぬけきれない東北なまりではっきりした口調だった。

 「やはり環境行政というものを確立してみようと思った。当時は公害問題が緊急課題でね、その一つが水俣病の問題だった。これは政府が悪いなあ、本当に悪いよ政府は。チッソという会社が海に捨てた工場排水による有機水銀が原因だったが、惨めな病気で仕事もできず、苦しい生活の中で何百人も死んでいった。これは政府の責任ですよ。政府は、会社を守ることしか考えていなかったなあ。大企業とか銀行とかを守るのが使命だと考えてるようなところがあるからね」舌鋒鋭く、情熱的に話をつづける。

「当時はまだ、水俣病というのは確立した病気ではなかった。手が震える。目が見えなくなる。どうも自分は水俣病ではないかと患者が診察に来る。どういう対応するか。病気の診断というのは、これこれの症状がそろって、こういう状態だから何々の病気だと診断される。ところが水俣病というのは、症例も病状も確定されていない。イギリスの学者による水銀中毒の症例報告があるだけで診断するにもその基準ができていなかった。そこで政府は、九州の学者を中心に10人の“水俣病審査委員会”をつくったが、水俣病という病気そのものの存在が確定されていないのに、一体何を基準にして審査するのかということだ。おこがましいですよ」多少吃音が悪くなり始めたが、大石は手振り身ぶりで声が高くなる。

 「だから、わたしは言ったんだ、水俣病の疑いありと診断された者は、水俣病患者と同じ扱いをしてやれ、と。例えば、刑法の世界に“疑わしきは罰せず”という言葉がある。これは人権を尊重した立派な“法”だ。これと同じ発想で、疑わしき(患者)は罰(否認)せず、救済すべしという方針を決め、次官通達で出した。水俣病に認定されると、いろいろ手当がつくし、治療費も出る。貧しい漁師の家庭にとってはどれほど助かったことか。これは長官就任から一週間ほどでやっちゃった。当然反発もあった。」

 「熊本の学者や医者連中が怒ってねえ、“大石はヤブ医者じゃないのか”、“審査委員会なんかやめた”とね。そこで委員長の徳臣教授が真意を確めに来た。じっくりと彼に話したよ。すると彼が“喜んで賛成しましょう”と納得して帰った。そしたら患者を診る基準が軟かくなって、たくさんの人に喜ばれたよ。それと15万人ぐらいの再検診も実施したら、隠れ患者も相当見つかって、救うことができた。

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